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神への供物としてのごま

2025-06-18

『延喜式(えんぎしき)』は、平安時代中期(927年完成)に編纂された、律令制下における国家儀礼・祭祀・法制などを定めた全50巻の格式書です。日本の古代国家がいかに宗教儀礼や年中行事を厳格に運用していたかが記されており、ごまの存在もそのなかで明確に確認できます。

特に注目されるのが、新嘗祭(にいなめさい)の記述です。新嘗祭とは、毎年11月23日に全国の神社で行われる五穀豊穣を感謝する祭儀で、天皇自らが新穀を神に供え、その後自身も食すという、神と人との“共食”を象徴する重要な神事です。『延喜式』では、このときに神に供える穀物として、米・麦・大豆に並んでごまが挙げられており、ごまが他の主要穀物と同列に扱われていたことが分かります。

新嘗祭以外の神事においても、ごまはしばしば登場します。たとえば、宮中の重要な祭祀のひとつである「仁王会(にんのうえ)」では、国家安泰と万民の幸福を祈願するために、仏教僧が招かれ、読経や祈祷が行われました。この祭においては、ごまが僧侶への供物として授与される「賜穀(しこく)」のひとつとされ、仏教儀礼と深く結びついていたことがうかがえます。

こうした記録から、ごまは単なる食材にとどまらず、「神に捧げるにふさわしい神聖な作物」として、国家の宗教儀礼の中心に位置づけられていたことが明らかです。さらに『延喜式』には、中央の宮中祭祀だけでなく、地方の神社で行われる祭礼にも、ごまが供物として用いられていた記録が残っています。つまり、ごまは日本全土における神事の中で、重要な役割を果たしていたのです。

しかし、時代が下り、政治の実権が天皇から武家へと移っていくにつれ、宗教的・儀礼的なごまの位置づけにも変化が現れます。ごまやごま油の価値に目をつけた権力者や商人たちは、それを一種の「利益を生む商品」として重用し、独占的に扱うことで大きな利益を上げていきました。

奈良時代にはすでにごまの国内栽培が定着しており、特に朝鮮半島や中国大陸との距離が近い九州北部、あるいは中央政権のある近畿地方、なかでも河内(現在の大阪府東部)などが主要な産地として記録されています。これらの地域では、中央からの命令に従ってごまの栽培が奨励され、租税の一環としても利用されていたと考えられます。

やがて江戸時代に入り、戦国の混乱期を経て社会が安定すると、ごまやごま油は次第に庶民の生活にも浸透していきます。とはいえ、まだまだ高級品の部類に属しており、庶民にとっては特別な日や祭事に口にするものでした。都市部では薬種問屋や油商がごま油を取り扱い、寺社の門前や薬屋などで販売されるようになります。

このように、ごまは古代日本においては神に供える神聖な穀物として、そして中世以降は高価な薬用・食用資源として、人々の信仰・経済・食文化のなかで多面的な役割を担っていたのです。



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